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■科学の楽しみ:2

■科学の楽しみ:2

一歳になったばかりの娘を観察していると、世の中の全てが不思議でたまらないんだろうと思う。赤ん坊はずいぶん早い時期から親の一挙手一投足を注視している。赤ん坊は一日の大半を、眠るか注視するかのどちらかで過ごす。

そのうち言葉を発するようになると「なんで?なんで?」攻撃が始まるかと思うと楽しみで仕方がない。

電車やバスに乗っていて、幼児がお母さんに投げ掛ける質問の面白さといったら!
僕は、少々申し訳ない気もするが、「このお母さんは何て答えるんだろう」と、ワクワクしながら聞き耳を立てている。

子どもの発する素朴な疑問は宝物のようなものだ。もし科学を学ぶ受験生が同じような好奇心を抱けるとしたら、「砂を噛むような味気ない」、無味乾燥に陥りがちな受験勉強にもきっと潤いが与えられるだろうと思う。

そこで、問題。

問題D:
セッケンは使い始めが一番よく泡立つ。使い続けていると明らかに泡立ちが低下し、洗浄力が低下するような気がする。これは何故だろうか?

問題E:
30℃の水温は冷たく感じるが、同じ30℃の気温は温かく感じるものだ。この違いはどう説明できるだろうか?

問題F:
冬になるとハクチョウやタンチョウヅルは、氷点下の水に脚を浸して眠っている。羽毛のある部分は納得できるとして、脚には羽毛が無く、爬虫類のような肌で覆われているだけだ。それで体が冷えてしまわないのだろうか?


前回エントリの答え
問題A:時速300km 
問題B:どちらも等しい 
問題C:進行方向逆向き、つまり後ろ向きに傾く
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テーマ : 大学受験
ジャンル : 学校・教育

■科学の楽しみ

■科学を学ぶ楽しみ

スーパーマリオはジャンプした後に空中で向きを変えることが出来る。ルパン三世は落下しながら、まるで空気中を泳ぐかのようにして落下速度を変えることが出来る。

もちろん現実ではありえないし、我々だってそれを十分に知った上でフィクションの世界を楽しんでいる。

別に高度な科学を学ばなくても、人は生まれながらに自然現象を鋭く観察している。それが受験生くらいの年齢になれば、かなりのことを分かった「つもり」になっている。そして、実際に試さなくても、つまり実験しなくても、「それをこうしたらああなるだろう」という、いわば脳内シミュレーターが機能することで、「予想」出来るようになる。

ところが、この脳内シミュレーターがクセモノだ。人間の直感は時として驚くほど役に立つときもあるが、悲しいほど人を惑わせることもある。

例えば次の問題を、直感だけで答えてみて欲しい。

問題A
「時速100kmでまっすぐ自分に向かってくる電車に、時速100kmでまっすぐボールを投げることを考える。電車の質量はボールに比べて無限に大きく、(専門的な言葉を使えば)完全弾性衝突するものとする。ボールは電車に跳ね返ってまっすぐ自分の元へ飛んでくるが、このときのボールの速度は第三者からみて時速何kmだろうか?」


問題B
「同じ百円ライターが二つある。ひとつは中の液化燃料(ブタン)が2割しか残っていない。もうひとつは8割残っている。どちらも気相、つまり気体の部分があるが、それではどちらの気相の気圧がより大きい値を示すだろうか?」

問題C
「窓を閉じた電車の中で、ヘリウムガスが入った風船のヒモを床に固定する。電車が出発すると、風船はどのような動きを示すだろうか?」


難易度でいえばC>A>>Bといったところか。
問題Aは高校物理の初歩を学んでいれば容易に解答できるが、直感だけで答えられる人は滅多にいない。問題Bは高校化学の基礎であるが、大人ならまず間違えないはずだ。しかし小中学生は面白いように間違える。問題Cは厄介だ。例えば東大物理学科の友人に出題したときは、正答率は1割ほどだった。ただし問題Cは今やとても有名な問題なので、既に知っている人は多いかも知れない。

僕が受験の科学を飽きずに学んでこられたのは、自分の直感がときに顕す「いい加減さ」に驚き、より高度な脳内シミュレーターを構築することに楽しみを見出せたからだろうと思う。

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■受験生の過ち(13)

■受験生の過ち(13)

★一般教養の不足を自覚しながら何とかしようとしない

「無知は恥である」そう考える高校生が激減した気がする。
科学誌を読まなくなったとかそういうレベルではなく、全般的に物事を知らない、知ろうとしない。「知らない」と口にすることに躊躇がない。

最近の受験生は本当に読書が足りない、ということは別エントリに記した。医学部を目指す受験生、そりゃあ本なんか読んでられませんよと言われるかも知れない。だが、ちょっと待って欲しい。

もちろん、中高時代までに浴びるように読書した人間にはもう敵うわけがない。試験まで数ヶ月という時期に、読書という形式で受験国語の成績を伸ばすことは確かに諦めた方がいいだろう。

しかしだからといって読書不足、さらにいえばそこから来る一般教養の欠如を自覚していながら何ら対策しないというのは、やはり間違ってはいないだろうか。

今までろくな読書をしてこなかった人間だって、いや、そういう人間だからこそ、いま目の前にある一冊の書籍から得るものは小さくないはずだ。

かくいう僕は小さい頃から本の虫だったので、今思えばかなり早熟な読書を楽しんでいた。中学時代には例えば安部公房全集を読んだし、そこから得たものは小さくないと思っていた。しかし、もうすぐ30歳になるという今になって久し振りに安部公房を紐解いてみると、「なんだ、僕は全然読めていなかったんじゃないか」と驚愕し、反省する。むしろ「今こそ読むべきではないか」と思うし、「今まで読んだ本を全部読み直したい」とすら思う。

ある年齢になってから初めて読めることがある。読書に縁の無かった者が、いま、諸君の視点で初めて本を読むことは、決して「遅く」なんかない。諦める必要なんかどこにもない。

小説じゃなくてもいい。評論でもいい。社会学でもいい、心理学でも哲学でも宗教学でも言語学でも科学史でもいい、今まで読もうなんてビタ一文思わなかった本を、国語辞典片手に読み進めてみて欲しい。

死に物狂いの受験勉強の合間に読書をする。それが無駄なわけあるか。

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■塾は触媒である

■塾は触媒である

言うまでもなく、触媒は反応速度を変化させこそすれ、平衡定数を変化させるものではない。ましてや、それ抜きには起こりえない反応を可能にするものでもない。

「東大受験に塾は必要ですか」

こういう質問をたまに受ける。

実は、僕自身、現役で東大理科二類に合格したときは塾というものには縁がなく、代ゼミの無料講習(直前東大講習、英語と化学)に二コマだけ「塾ってどんなとこ?」と顔を出したことがあるに過ぎない。そして、「ふ~ん、まぁこんなものか。別に必要ないな」と思ったものだ。

その僕が塾を主宰しているのだから可笑しいと思う人もいるかも知れない。もちろん、理三を再受験するにあたっては旧ena大学受験部(同名で現存する塾とは実質的に無関係)に通い、真に優れた塾、予備校の存在価値を大いに痛感したのは言うまでもないが…。

無論、理二は独学可能で理三は塾が必要などと言うのではない。結局、当人がどんなに努力しても各人の限界は厳然として存在するものだ。突き放して言えば、持って生まれたものを努力でひっくり返すことなど不可能かも知れない。

僕が予備校で教壇に立ち、塾を主宰してきたのは、主に二つの理由がある。

ひとつは、「持って生まれた限界を努力で超えることは不可能かも知れない」が、「世の中の受験生の大半は自分の限界に達するまで努力できていない」という事実に気付いたからである。僕の生徒で、僕の目から見て「うん、こいつはもう限界に達しているな」と感じたのは数えるほどもいない。逆に、「まだまだ出来るだろう」と尻を蹴飛ばしたくなる生徒は数えきれるものではない。

もうひとつは、自分が触媒となることで、生徒がより速やかに限界を見据えることが可能になるという気付きからである。

確かに市販の教材を自宅で解くだけでも(かつて僕が理二に合格したように)それなりのレベルまで到達することは可能であるが、その努力のさなかにおいても、そしてその努力が実ってからも、「近くにすぐに質問に答えてくれる先生、いや、せめて先輩でもいれば、どんなにか遠回りしなくて済んだだろう」と痛感したものだったのだ。

僕は受験化学を(高校の教師を除けば)誰にも教わったことがない。手に入る限りの難問をああだこうだ考えて、ようやく「ん、そういうことか!」と気付き、分かったつもりになり、しかし反例らしきことが見付かる度に再度頭を抱え込む、そういう紆余曲折を経て学んできた。

だから、僕は生徒にも紆余曲折を要求する。

すんなり正解を与えることなどしない。しかし、正解に辿り着くまでのヒントは潤沢に与えたい。僕の数年間の彷徨を数ヶ月で辿れるように。

「塾は必要ですか」

そう質問されたとき、僕はこういう話をすることにしている。

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■小橋塾特製・計算ドリル第二弾

■小橋塾特製・計算ドリル第二弾

熱い要望にお応えして計算ドリル第二弾を作成した。
第一弾とあわせて約150問。これだけで化学全範囲の計算問題をカバーしているはずだ。しかも小橋のキャラクターを反映しているのか、どの問題もかなり汚い途中式、汚い結果になるように作ってある。市販の問題集にある問題がいかに「整備」されているかがよく分かるだろう。

化学が面白いと知り、脳内シミュレータでの思考実験を通じて論理的な思考を身に付け、必要十分な知識を習得し、志望校の過去問を順次解いていく。

そこまでやった人間が最後に痛感するのは「計算力の壁」である。

特に東大受験生。
ライバルが何をやっているのか知りたいだろう。ライバルの使う問題集、予備校の授業、テキストを知りたいだろう。去年、一昨年、華麗に理三に合格していった者達がどのような教材を使っていたのか、そんなもの、知りたければいくらでも教えてやる。実は、そんな情報にろくな価値などない。それを得意げに吹聴する者もいるし、高い金を要求する者もいるが。

どんな科目でも重要なことは「どの教材を使ったか」ではなく、「どのように使ったか」である。そんなこと当然じゃないかと言うかも知れないが、それでも多くの受験生は前者に意識が流れているように思う。まだどこかで「成績が飛躍的に上がる魔法のような教材」の存在を信じているからかも知れない。そうだとしたら、何てお目出度いんだろう。

東大受験生。
解けて当たり前の問題(=入試問題)を解けたと喜んでいては一流になれない。喜ぶのはその先、つまり人より速く正確に解けるようになってからだ。

その修行のひとつが反復訓練であり、小橋塾としては計算ドリルを用意している(去年までの生徒からは「なんで同じものを用意してくれなかったんですか」と恨まれてしまったが…)。これを本番までに10回解けと指導しているが、既に4回終えた者もちらほらいるようだ。

ふふふ、自分の成長を楽しみにしていなさい。驚くほど伸びるから。

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■受験生の過ち(12)

■受験生の過ち(12)

★「人間、忘れるもの」→「忘れるのは仕方ない」というすり替え

最難関校に華々しく合格していく生徒に共通する姿勢。
それは、「同じ過ちは決して繰り返すものか」という強い信念だ。

もちろん、この主題は個人の生まれ持った能力、つまり記憶力に左右される側面も多いが、それを踏まえても意識の差を厳然と知覚せざるを得ないものだ。

例えばこういう偉そうな記事を書いている僕自身、記憶力という点では本当に恵まれなかったが、自分の意識レベルに応じて記憶の精度、つまり「覚えることと思い出すこと」の精度に面白いほど差があることは、随分と幼いときから気付いていた。

以前試験で間違えたこと、その時知らなかったこと、講義中に質問されたとき答えられなかったこと、そして何より講義で扱ったこと。これらを再び過つことなど死んでもいやだ、恥だ、時間の無駄だと思って欲しい。

そして、本番なんか見たことのある問題だけ取りこぼさないだけで合格点など軽くクリア出来るモノなのだ。

諸君は自分が思う以上に同じ過ちを繰り返しているものだ。その実態に気付けばさぞ呆れることだろう。もはや「人間だもの、忘れるものは仕方ない」なんて言葉で自分を慰めてなんかいられないはずだ。

過ちは二度と繰り返さない。それを世間は学習という。

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■受験生の過ち(11)

■受験生の過ち(11)

★与えられたものを素直にこなす従順性

予備校にしても通信添削にしても、家庭教師のような個別指導でない限り、学習のカリキュラムを指導者側に委ねているのが普通だろう。そのカリキュラムの中には、もしかしたら諸君に必要のないもの、あるいは他により優先すべきことがあるものも、存在するだろう。

「授業だから」「カリキュラムがそうなっているから」等と言ってより優先順位の高いものを放置するなんて、何とも勿体ない話だと思わないか。

一流の受験生は自分に何が必要で何が不要かをよく知っているものだ。予備校的に「良い生徒」が必ずしも「受かる生徒」とは限らない。

別に特別なことを言っているのではない。物理の電磁気分野が弱いと自覚しているのなら、電磁気分野を優先して演習すべきである。数Ⅲに苦手意識があるのなら、教科書傍用問題集でいいから基礎をもう一度確認する作業を厭うべきではない。自分に必要のない内容の講義を無理して聴くよりも、場合によっては自習室で粛々と演習をした方がいいことだってある。

相対的に得意といえる分野、既に十分な成績をおさめている分野に時間を割くほど余裕のある諸君は滅多にいないはずなのだ。そんな時間があれば不得手な単元、肌に合わない出題形式に一時間でも多く向かい合うべきだ、なんてことは、今さら言う必要もないだろう。

君たちは「何が必要か」を可能な限り分析するべきだ。もちろんその見極めは決して容易ではない。自分の答案を客観的に眺められる受験生なんてそう多くない。

まず模試を受けろ。そして各科目の指導者に訊きに行け。「自分に何が足りないか」を。

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■小橋の授業(1)

■小橋の授業(1)

小橋塾はどんな授業をしているのか、というお問い合わせを偶に頂く。
特別なことをしているつもりではないが、僕がひとつ常に意識していることがあるとすれば、「惰性から脱却するチャンス」を提供したい、ということだ。

例えばこの図。

12kai011.jpg

どんな教科書にもどんな薄っぺらい参考書にも、必ず載っている中和滴定曲線だ。医学部を目指す受験生なら今さら取り上げるまでもない、実にありきたりで新鮮味のないテーマ、と思うだろう。

かつて僕は30人以上の理三・京医合格者(受験生ではないぞ!)を指導してきたが、その中でたった二人だけ、面白くも同じ質問を携えて僕の所にやってきた。上の図の赤丸で囲んだところ、つまり弱酸を強塩基で中和するときに描かれる曲線のスタート付近において、お隣の強酸とは全く異なる形状を示しているのがお分かりだろう。

彼ら二人は(といっても、世代の違う互いに面識のない生徒であり、各自が別個に質問しに来たのであるが)、「その理由を教えてくれ」というのである。

本当に嬉しかった。僕が本当に賢いと信じるのはこういうアタマなのだ。僕の知る限り、このグラフの形状、つまり強酸と弱酸の中和曲線のスタート付近の形状の違い(の理由)が入試に問われたことは無い。誰でも見たことのあるグラフでありながら、誰も疑問を抱かなかったこのグラフに立ち止まり、真剣に考える姿勢。見慣れたものの中に潜む不思議に気付ける視線。ああ素晴らしい。

結論から言うと、この疑問に対して論理的な解答を作り出せるなら、受験化学における酸塩基理論に対する理解は十分であろう。しかし、恐らくはかなり手こずるのではないだろうか。

僕の他の生徒達は(僕は質問は投げ掛けても答えは安易に与えないので)他の塾や学校の化学教師などに訊きに行った者もいたそうだが、誰一人として満足な解答が返ってこなかったという。「何でだろうねえ?」「よくわかんないね」で終わらせてしまうそうだ。

この主題が入試で問われたことはない(はず)だと既に述べたが、「じゃあ別に答えられなくてもいいじゃない?」と考えるのが二流なのだ。

まず、積極的疑問を抱く姿勢を持たない受験生は二流である。与えられた問題を解き、答えを覚えるだけでは難関大学は受からない。

また、そのような疑問に対して受験生を満足させられない指導者も二流である。惰性で教えている教師に負けていられるか。こっちはいつだって真剣勝負しているんだ。

「酸塩基なんか簡単なんだよ」と軽々に口にする化学講師が多い。本当かよ!と突っ込みたくなる。僕は、酸塩基理論こそが大学受験化学で一番難しいテーマだと信じている。

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■受験生の過ち(10)

■受験生の過ち(10)

★すぐに結論を求めたがる性癖

受験問題にはどんな科目でも、正解はひとつしかないのが普通だ。解けない問題の解法と正解を知りたい誘惑に駆られるのはよく分かる。

そして、国公立医学部を目指す受験生にはもはや「解答できるまでウンウン悩んで考える」ような贅沢な時間の使い方をする余裕がないのもよく分かる。

だが、敢えて言いたい。

なんでもう少し考えてみないの?
あとちょっとでもいいからさ。


そういう受験生が余りにも多すぎる。この「あとちょっと考える」ことが出来るか否かは、長い目で見れば成績の伸び方に大きな影響を与えているのは明らかだ。

安直に正解を求め、解法を求める受験生は、それを手にした途端に安心して思考停止してしまう。これをただ繰り返すことに何の意味があろうか。

もう少し考えてみようじゃないか。

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■受験生の過ち(9)

■受験生の過ち(9)

★解けそうな問題を解いて「うん、解けた」と安心するのが勉強か?

そんな「確認作業」、つまり自分を「安心させる作業」をしている暇はない。
「これは解けないかも…」と思う問題を解け。そして頭を使え。悩め。

「以前解けた問題が解けなくなっていたらどうしよう?」

そんな心配しなくていいから。
解けない問題を解けるようにするのが勉強なんだから。

自分の成長を阻害する完璧主義強迫観念なんか捨ててしまえ!

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プロフィール

小橋哲之

Author:小橋哲之
小橋塾塾長

研修医一年生

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